昭和40年11月1日 朝の御理解



この月は、何を、どこを焦点にして、信心の稽古をさせて頂くか。一日のうちでは、やはり朝である。おはようございます。皆さん、おはようございますと。私は、こんな気持ちで、一日が、あの、過ごさせて頂いたら、一日は、おかげだと思うですね。元旦に、明けましておめでとうございますという、あの気持ちです。あ、皆さん、おめでとうございますと。私共は、その、おめでとうございますという日々がすごさせて頂きたいのだけれど、そこまで、出来んに致しましても、朝、お互い顔を合わさせて頂くと、おはようございます。おはようございますと、こう、挨拶を交わさせて頂くその気持ちで、今日一日が、過ごさせて頂けれる、一つの工夫というものが、なされなければならん。月のはじめにあたって、そういう事を、さ、今月こそはと、例えば、一つの計画に向かって、えー、そのことに取組んで行くという、いうようなことでの信心。今の椛目の、信心。今の椛目の、会員一同のものが、あー、いうなら、一番かげておるもの。一番ここを焦点にしなければならないというような所は、どういうような所と思うのですか、皆さん。私は、思いますのに、えー、今の椛目ぐらい、この、おかげと信心のバランスの取れてない時はないと思います。どれだけ、取れておらねばならんのに、椛目的一つのおかげと、お互い、銘々の信心との、バランスが取れてないということです。私をはじめ、総代、役員をはじめ、もう、一同のものがです。こういうような、大きな、椛目的おかげを頂こうとしておるときに当たってです。そういうおかげの働きというものが、形にです、表れておるときです。私共の信心が、それに、吊り合うていないということです。皆さんそれを、それぞれ、銘々感じられんですか。いうなら、今こそ、生き生きとして燃えるようなと、いわば、勢信心がなされなければならない時は、無いのじゃないかとこう思うくらいです。それで、はたして、どうやって、私共は、生き生きと、そして、燃えるような勢いというものがあるだろうかと。常に、相済まんことだとこう思います。それで、どういう所に、原因があるのかと。やはり、こうして、思うて見、そして、心の中に、自問自答して、これを、検討していかなければいけません。それを、この頃、思うて見ると、ああ、してないという事ですねえ。どうでしょうか。はたして、まあ、何にも無い平穏無事というか、そういう様な時の信心と、非常時であるはずの、現在の椛目の信心とが、どのように違った事があるでしょうか。総代さん方が、朝、大体、そろうて、その事のために、総代先頭に立って、お取次ぎを願い、事の成就を願うておられる。まあ、そのくらいな事じゃないでしょうか、変わったというならば。それとても、やはり、何時も、朝参りをなさり、日参をなさっておられる方達の内容が、どれだけ違うだろうか。総代一同として、その事のお取次ぎを願われる、その事だけぐらいじゃなかろうか。それとても、内容は、どんなものだろうか。それに、総代さん方の信心に、皆が、右へならいをして、果たして、どれだけ付いてきておるだろうかと。付いてきていないとするならば、それは、ちょっと可笑しいぞと。「ね」。さあ、総代さん達に続けと、と言うような信心が無いとするならば、それは、内容においてです。ただ、形式、形、総代だから、こうさせて頂いておるというだけの事に過ぎないとするなら、これは、総代、一つ本気に内容を検討してみる必要は無いだろうかというふうにです。拾い上げてまいりますと、そういう意味合いでは、切りがなかろうと、こう思うのです。総代の信心に、皆がどれだけ、「ね」。まあ、それを申しますと、ほんなら、中心である、私の信心にです。総代が、どれだけ、付いてこようと勤めておるのかという「ね」。事にもなるのです。ですから、そこんところは、私自身の信心の内容を追及していかなければならない、検討していかなければならない。ということに、ま、いわば、そこに、帰せてしまうのですけれども、「ね」。私は、思うのですけれども、よく、教団の中にも使われる言葉の中に、問題を問題としてと。私は、あの、椛目、今、皆さんの場合、本当に、あの、問題を問題とし過ぎとるのじゃなかろうかと。まあ、問題を問題にしておるだけの事であると。問題を、おかげにして行くという信心にかげておるのじゃなかろうか。今月の焦点というならばです。ただいま、私が申しますように、「ね」。今こそ、椛目の非常時であると。いうなら、一人、二人の力では持ち上がらない、大きな事に、ぶっつかっている時である。椛目会員の全体が、一つになって、声を揃えて、勢を揃えて、信心の稽古に本気にならなければならないと、いうその、椛目という一つの問題をです。ただ、問題としただけではなくて、椛目的その問題をです。おかげにしていこうとする意欲、なら、おかげにしていこうとする信心が、本気でなされなければならないのじゃないかと、いうことを思うのですね。再検討させて頂いて、そこんところに焦点を置いて、今月は、そこんところの、一つの、癌とでも言うか、原因とでもいうか、それを取り除くものは取り除き、「ね」。その焦点を、一同、焦点として、信心を一つ進めて行きたいと。ま、今朝、一日の朝の御祈念に当たってです。私は、その事を感じさせて頂いたんです。もう、分かることは、十分皆さん分かっておられる事なんです。信心の、おー、焦点というか、信心させて頂く者の、一応、これは、目指して頂かねばならないという事はです。生き生きとした、喜びを求めて、言うなら、光を求めてというので無からなければならないのにもかかわらず、私共は、おかげを求めてという事になっているんじゃなかろうかと。これは、椛目的な、んなら、御造営なら、御造営という事に於いてもです。いわば、御造営が行事ということだけ。御造営成就というおかげの事だけであって、「ね」。それが、ただ、成就さえすれば良い、というので、その事が、何回検討されたり、えー、どうすれば、あー、神様の心に叶うような御造営が出来るかという事を、検討しただけではいけない。やはり、銘々の心、銘々の信心を検討しなければ、私はならない。また、それが、私は、生き生きとした信心であり、生き生きとした、光を求めてのものである。「ね」。出来上がったその物に、いわば、光り輝く徳の裏づけというものが無かったならばです。私は値打ちは無いと思う。なるほど、御徳で出来たんだなあ。みんなの勢信心の賜物だなあといったような、私はおかげになってこなければ、ならないと思うんです。一つ、お互いが、問題を問題にして、ただ、検討するだけではなくて、その問題をです。通して、お互い、信心にならせて頂かねばならない。「ね」。皆さんそうは思いませんか。問題の度に、椛目的に、問題の度に、椛目的な信心がどれだけ分かっていきよるだろうかと。なるほど、そこを解決のおかげを頂いては行きよる。おかげは頂いて行きよる。けれども、問題のために、私共はどれだけ、改まったり、生き生きとした喜びをそのつど都度に頂いて行きよるかと。
今月は、事が進展すると、ということよりもです。進展に伴うところの、信心というものの、おー、いわゆる、進展である。「ね」。もう、ほんとに、個人個人のことで無いですから、「ね」。自分一人ぐらいという気持ちが、お互いの心の中にやっぱりあるのです。それでは、私、信心の稽古にならん。「ね」。自分一人ぐらいまあ、おかげは無くても、自分一人ぐらい、いい加減にしておっても、事は進んで行くことは間違いないだろうけれども、「ね」。自分が一人、私は生き生きとしたそういう信心を欠いたらです、もう、皆に伝わってくるという様な、一つの意気を持ってです。お互いが、その事に、その問題に、取組んでいかなければ。そこから、銘々だけが頂くところの体験。そういう苦戦をしただけの上に頂けれる、生き生きした信心。「ね」。そこんところをまた、そこんところが、光を求めての信心ということになるのじゃないかと。
一日、一日をです、ただ、今日もおかげを頂いたというだけではなくてです。今日一日、あの事によって、えー、この事を分からせて頂いたという様な信心。椛目の信心といえば、「ね」。成り行きを大事に、尊ばせて頂いて、その、成り行きそのものを神様の働きとしてと、自分に求められた修行としてです。そこから、おかげを頂いていこうという、行き方なんですから。これが、打って一丸になって、ことに当たらせていただく場合でも、やはり同じことである。誰が、どうというのではなくて、銘々の信心に一つ心を置かなければいけん。
次は、おかげを受けるということよりも、おかげの受け物を作らせて頂こうと。それは、私は、問題を問題とするということだけではなくて、問題をおかげにして行く、問題を信心にして行く。いわゆる、おかげを、問題を、おかげを頂ける材料にして行くと。いうなら、自分の心を改めて行くとか、または、磨いていく材料にして行く。それは、おかげを頂いていくという事だけに、私は、焦点をおかずに、この月あたりは、そこんところに一つ、思いつかせて頂いて、あまりに、分かり過ぎておる事でございますけれども、「ね」。それが、分かり過ぎておって、一つも出来て行きよらないといった様な、感じを私を始めするのです。どうぞ一つ、月の初めに当たってと。信心のはじめに当たってと。皆さん、お早うございますと。お早うございますと。こういう気持ちでです。「ね」。この月が、只今申しました、何時も申しております。まあ、言い古した事ではございますけれども、椛目の信心は、ここに焦点を置いていく以外には無いのです。「ね」。問題を問題とするのではなくて、「ね」。問題を、いわゆる、信心をおかげにして行くと。「ね」。神様は、間違いないなと。私は、ここんところに焦点を置き、ここんところに信心を分からせて頂く事によって、これが、おかげのほうが進展して行くというものでなからなければいけないと。このまま、例えば御造営が成就致しましても、それは、本当に、神乍の事にはならないでしょう。もう、無理に無理をしたり、「ね」。いわゆる、事務的なことです。事務的なことで、事が進展して行くというだけではなくて、神乍に事が進んで行くということにはならないでしょう。先ず、私共は、信心を、ここに、おかげのほうは足踏み状態でも構わんから、自分どもの信心をです。本気で、そこに、おかげを頂いていきたいと、「ね」。銘々、こら、家庭の上においても、個人の上においてもです。おかげの受けられない、例えば、事実上のものを見てです。「ね」。ただ、どうぞおかげを下さいというのではなくてです。なるほど、ここに、こういうおかげの受けられないいわば、障害物があったから、と、それを気付かせてもらって、それを取り除かせて頂くことに、本日は、いよいよ焦点を置きたい。私は、今月はそういう気持ちで、しかも、それがです。「ね」。朝、お早うございますと、お互い、言わせて頂く斬新さ。生き生きした信心を持って、今月のことに、いよいよ当たらなければならないという事に、ま、覚悟をさせて頂いた訳でございますが、総代さん方をはじめ、皆さんも、そういう信心にです。言うならば、ならせて頂かなければならない。そして、生き生きとです、例えば、総代さん方の信心に、みんなが、こう、右へならいしてくるような信心の勢いが、先ず、頂かなければいけないというふうに思います。どうぞ。